鰹節が大好きでした

「希望」

ぼくは時間を確認しようとポケットの中に手を突っ込んで携帯を探してみた。
がさがさごそごそ。
ところが、ポケットから出てきたのは携帯でもなく、ましてや懐中時計などでもなかった。
それは一つの大きな、手のひらと同じくらいの大きさのスイッチだった。
なぜすぐにスイッチだとわかったかというと、それがスイッチとしか言いようのない形状をしていたからだ。
まず、四角い台座がある。その上にこれ以上ないというくらい分かりやすいスイッチがついていた(ちょうどこんな形だ「且」)。
スイッチには大きく「P」と書いてあり、押せば良いことを示している。


さてどうしたものだろう。
頭の中にクエスチョンマークがついた。
人情としては押してみたい。どうせ世界も滅びるのだし、スイッチの一つや二つなんて、なんということはないだろうとも思う。
一方で、別の考えが浮かぶ。このスイッチが世界を滅ぼすのではないか?
例えば、核の発射ボタンであるとか、地球の自爆スイッチであるとか。あるいは世界を滅亡から救うスイッチかも知れぬ。
まあそんなことはないだろう。
なにせ、スイッチだけでコードも付いていないのだ。
強烈な吸引力を持ってそのスイッチはぼくに語りかける。
「押してしまえ」と。
ぼくがその言葉に抗えるはずもなかった。
スイッチに手を掛け、「P」の中心にぐっと力を込める。


…その刹那。再び大きな揺れが襲い掛かってきた。
とても立っていられるような揺れではなかった。
ぼくは近くの建物の影に身を寄せて、太い木の幹に両手でしがみついた。その際に、スイッチをポケットに仕舞わなくてはならなかった。


時間が経って、ようやく揺れが治まった。
もう一度ポケットに手を入れてみると、スイッチは確かにそこにあることが分かった。
このパターンだと、スイッチが消えてなくなっているのではということが頭をよぎったが、どうやらそんなことはないらしい。
改めてスイッチに向かう。




ぼくは窓辺で本を読んでいる。
今日はとても天気が良くて気分がいい。こんな日は部屋にいるなんてもったいない。外に出かけよう。
猫も「にゃー」と鳴いた。
あの時、ぼくはスイッチを押さないことに決め、再度、ポケットに仕舞い込んだのだった。
暫く歩くと、猫が歩いてきた。どうやら無傷のようだった。
さらに先へと歩いた。気が付くと、かつて自分の部屋があった辺りに来ていた。
混沌として、なにがどうあったのかも思い出すことはできなかったが、確かにそこはぼくの部屋だった。


復旧には時間が掛かった。
生き残った街の人々は共に助け合い、元の規律をとしていた。
時折り入る情報では、世界中がこのような状況であることを告げていた。
猫とぼくは時々休みながらも一生懸命働いた。
そして、隕石の落下から実に3年と半年の歳月を掛けて世界は元の状態に戻った。
もちろん全てが元通りというわけではない。
死んだ人は生き返らないし、怪我をした人のなかには未だに完治していない人も多い。
聞いた話によるとエベレストが世界一高い山ではなくなってしまったようだ。
世界は3分の2スケールくらいで元通りになったのだ。
そして、悲しみに溢れていた時期は終わり、至る所に希望の二文字を読み取ることができた。
そういう意味では隕石落下以前よりましになったと言えなくもない。


ところであのスイッチは机の鍵のかかる引き出しに人目に触れないようにして、まだ手元に残っている。
時々そのスイッチを取り出して眺める。
絶望の中に残された唯一の希望。
それを押さないでいられる人間がどれくらいいるのだろうか。
しかし少なくとも希望さえ捨てなければ、どんな状況からでも人は生きてゆける。


今だからこそ思うのだ。それは唯一の希望ではなく、希望を捨てるためのスイッチだったのではないかと。







長らくお付き合いいただきありがとうございました。
マブアサノの次回作にご期待ください。